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擬人化したのは何か――「ズートピア」を見て、感想を絞り出した

スタジオ/カンパニー(〜2020年5月)

この作品を、どうやって表現したらいいんだ……

2016年4月23日、日本でも待望の「ズートピア」が上映開始となりました。早速見に行きましたが、直後の感想はここまでしか書けませんでした。

一応ですが、これまでの映画観賞直後のツイートを見るとですね。まず1つ前の「ベイマックス」。東京国際映画祭で一足先に見てます。興奮してます。

1つ前の「アナと雪の女王」。この時も試写会で一般公開前に見たときの感想。そこそこ興奮してます(後にレリゴーが爆発するとは知らずに)。

その前の「シュガー・ラッシュ」。こちらも試写会が当たりました。アガってます。

さらに前。「塔の上のラプンツェル」。震災直後。いろいろあった。けど一発でそのスゴさを体感できています。

見比べたら今回のズートピアに関して異質なのが分かる……かと思ったらさほど分かりませんね(苦笑)。最近は極度にネタばれに過敏になってるんで書きにくいというのもあるはあるけれども、今作に関しては評価がしづらい!

というのも、過去5~10年を見比べても、ディズニー長編作品でここまでメッセージ性を強く打ち出している作品が無いと思っていて、そのメッセージも受け取る人によってとらえ方が微妙に変わってくるんじゃないかなあ、と思います。

これまでであれば、例えば「リロ&スティッチ」ならば種族や立場を超えた家族愛というメッセージがあり、どう思う?と聞かれたら「いいね!」って答えられます。アナと雪の女王はメッセージ性がわりと薄くて「最後は愛よ!」みたいなのです。よく考えると昔の方が極端なメッセージ性を出している作品が多くて、「きつねと猟犬」のように友情と役割のどっちを取るのかを投げつけるものだったり、「ジャングル・ブック」のように生まれと種族、どこに帰属するべきなのかなどの選択を迫るものもありました。

で、今回のズートピア。何層にも分かれたメッセージをていねいに折り曲げ、それを波状攻撃のように投げつけてくるという印象がまずあります。それも、最初は「ディズニーが得意としている、動物の擬人化をしてみました~」みたいなオブラートに包んだ上で。そのメッセージ性のおかげで、ストーリーとか黒幕とかまっっったく頭に入ってこなくなりました。

以下、ネタばれを含みます。

夢はかなう、のその後は?

この映画の特長の一つは、「夢がかなったあとの話」を描いていることです。通常、これまでのフェアリーテイルでは夢を願い、その夢をかなえ、ハッピーエンドを向かえます。しかしもはやそんなストーリーこそ「夢物語」であり、夢をかなえたあとに人はどう行動すべきか、ということを伝えていると感じました。このあたりは、プリンセスが夢の象徴だった前時代から、「Dream Big, Princess」のように努力の象徴に代わってきたディズニーの方針にも一致しています。

「大きな夢を持とう」――アナと雪の女王監督、ジェニファー・リーがすべての“プリンセス”にささげる言葉
ああ、だから私はディズニーという思想の集合体を追いかけているんです。LINKDream Big – The Walt Disney Company

そしてこのズートピアでは、ウサギのジュディ・ホップスが「警官になる」という夢を序盤でかなえます。しかし夢がかなったあともさまざまな障害にぶつかり、その都度ポジティブに立ち向かう姿が幾度となく描かれています。それだけでなく、その夢が「誰かの課題になる」という姿まで取り上げられていて驚きました。このあたりには、公開の翌週にぶつかる「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」における、スーパーヒーローの立ち位置にも重なります。夢をかなえたあとも、その夢の「責任」をとり続ける必要がある――これは大きなメッセージだと思いました。

本能と理性、勝利するのはもちろん

そしてもう1つ、象徴的なメッセージがあります。それは「本能」。本来は食う/食われるの関係にあるはずの動物たちが1カ所で暮らすという大きな疑問に対しても、この作品は真っ向からぶつかってきました。擬人化した世界感を予告であれだけ披露しておきながら、実はそれが薄氷を踏むがごとく、奇跡的なバランスの上に成り立っていた――これは本家予告が非常にうまかったと思います(ただし、最後の予告はちょっと情報過多だったような気も)。

しかしさらに、この構造を何重にも重ね、決して捕食者が被捕食者を恐怖で縛り上げるという構造になっていなかったのは素晴らしいです。その結果、この作品は食う、食われるの関係から、「本能」と「理性」の問題に代わっていきます。ズートピア世界が成熟し、社会的になることで、これまで少数、強者がルールを作っていた本能の時代が終わり、弱者でも数があるほうが強くなり、腕力があるものをねじ伏せていく――。こうなると、もはや弱者ではなく、また違う力を持った強者です。

本能に従い、自分の腕力で弱きものを恐怖で押さえつけるのか、それとも理性を使い、民主主義的な数の力で押し切るのか。これはもはや、どちらが善でどちらが悪でもなく、それぞれの正義を貫くことになる闘いになります。

そして、本作がすごいと思ったのは、この勝ち負けをはっきりと描いていたことです。クライマックスシーンでニック・ワイルドとジュディ・ホップスは、本来の狩る側/狩られる側に引き戻されます。私はこのシーンで固まりました。ディズニーは、監督たちはいったいこれをどこに着地させるのだ……?結果はご覧になった方はお分かりかと思いますが、実に痛快なシーンでした。しかし私はここで考え込んでしまいました。つまりこれは、「理性は本能を抑えられない」と描いているにほかなりません。本能を剥き出しにしたキツネが、理性を取り戻してニック・ワイルドとして戻ってくるという描き方ではなかったからです。本能を押さえつけることは、大変な困難を伴う――そう受け取りました。

↑ここに関して、最後に追記しました

かくして、ズートピアではいまも薄氷の上に成り立つ高度な社会が続いています。ここにこそ、監督たちが伝えたかったメッセージがあるのではないか、といまは思います。

誰もがみんなレイシスト

映画を見終わって、しばらくはなにも考えられませんでした。そして浮かんだのが、あるミュージカルの曲です。

これは「Avenue Q」というミュージカルの「Everyone’s a Little Bit Racist」という曲。字幕で表現されているように、誰もがみんな、ほんの少しは差別主義者の片鱗があるよ、というもの。このミュージカルのすごいところは、本音と建て前があることを大前提として、みんながホンネで言い合ってるところ。この曲も、差別主義なんてない!ではなく、みんながみんな少しずつ差別主義なんだから、ちょっとくらいは見逃そうね、という現実的な着地点を歌っています。

ズートピアの世界では、力は強いが数では負ける「捕食者」と、弱いけれども民主主義的な数の力を持つ「被捕食者」が、ギリギリのところで暮らしています。その状況を維持するのが、全員の理想だからなのでしょう。種族の差などはない、と言い切っていたジュディ・ホップスも、心の奥底では捕食される恐怖から「本能」が見え隠れし、それが大きなストーリーの転換につながりました。ニック・ワイルドもキツネであるということだけで周りから偏見の目で見られ、大きなトラウマとして傷を残しています。人間誰もが持つ偏見や利己的な考え方を、動物の野生や本能として“擬人化”し、ディズニー的に表現したのがこの作品です。

でも、その本能を殺すとか偏見をなくすではなく、「そういうものは誰もが必ず持っている。じゃあ、その前提で考えてみよう」というのが、この作品を見たあとに私に残されたメッセージでした。果たして、そんなことは可能なのでしょうか。

トライ・エブリシング

監督とディズニーは、おそらくそれに対してヒントをくれているはずです。たぶん、それがこの曲。

いろんな考え方を認めるために、なにをすればいいのか。たぶん「失敗したとしても何でもトライしてみよう」なんでしょうね。それを考えると、この曲の存在は大変深いと思っています(だからこそ、私は二回目もシャキーラが歌う字幕版を選びました)。

ディズニーはまたすごい作品を作りました。この作品が投げかけたテーマは非常に大きく、重いです。見たときに置かれた立場や環境、年齢によって見え方も変わるのではないかと思います。いまだ自分の感想もふわふわしているんですが、そのタイミングで記録しないとあとから振り返れないと思い、かなり無理して絞り出しています。ベイマックスのように「あがったわー」でもなく、アナ雪のように「レリゴーすごいし怖い」でもなく、見終わったあとにぐわんぐわんと揺さぶられる感じ。ということで、シビル・ウォーもはじまっちゃうしもう何回か見てくる。

追記:2016年4月24日

上記で書いた「理性は本能に勝てない」という部分、指摘されてなるほどと思ったことを。このシーンは理性の敗北ではなく、「機転とアイデア、頭脳と知能を持って本能に打ち勝つというシーンである」という指摘をいただきました。おおお、そっちの方が正しい!

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