さて、そろそろまとめておきましょうか。当然ながらネタバレありです。
日本ではなぜか4か月遅れの2014年3月14日公開となる「アナと雪の女王」。運よくアメリカでの公開日である11月27日に開催されたプレミア公開で見ることができました。
このアナと雪の女王、原題は「Frozen」で、当初は「雪の女王」を映画化するという話が持ち上がっていました。そのときには著名アニメーターであるドン・ハーンや、アラン・メンケンの名前も挙がっており、ラプンツェルの映画化(後の「Tangled」)とともにディズニーアニメ復活の鍵を握ると考えられていました。
ところが情報が出てくるにつれ、上記のメンバーの名前がなくなり、Tangledと同様、タイトルからは原作の名前が消えていきます(というより、原作を映画化するとは言ってなかった)。待たされたあげくに登場したティザー予告には主要キャラクターは登場せず、実に歯がゆいプロモーションでした。
結果……。びっくりすることにディズニー長編アニメーションとしては記録的な成績を残すという大躍進を見せたことはご存じの通りかと思いますが、これはおそらく「過去のディズニーからの脱却」が大きなポイントだったのではないかと思います。
簡単なディズニーアニメの歴史
インプレッションの前に、軽く過去を振り返ってみましょう。この作品を語るには2000年頃の話もしなければなりません。
若い方、またここ最近から映画を見始めた方には驚きかもしれませんが、ディズニー長編アニメ作品は順風満帆ではありませんでした。今作はディズニー長編アニメ第53作目ですが、これまで谷間といえそうなのは数回ありました(ここで言う長編アニメは続編群やビデオリリースをのぞく狭義のもの。ディズニー作品 – Wikipediaを)。
まずは11作目まで、シンデレラ以前のころが谷間。今でこそ再評価されていますが、白雪姫以降の作品は初回公開時には爆発的なヒットとまではいかず、ロングランで成果を上げています。シンデレラがきっかけとなり、これ以降の作品が(第1次)ディズニー・ルネッサンスと呼ばれます。
次、27作目まで、リトル・マーメイド以前が谷間。東京ではアトラクション化もあった「コルドロン」が大谷間でした。この谷間に存在した要因は、ナイン・オールドメン世代から若い世代への移行期だったことも大きいです(これが「きつねと猟犬」のあたり)。
その次、これは本当につい最近で47作目くらいまで。個人的にはラプンツェルが第3期ルネッサンスの始まりだと思っています。この間はご存じのように、ディズニースタジオもCGへの移行を行うだけでなく、2Dアニメーターの解雇、東京/フロリダのスタジオ閉鎖など、多くの犠牲がありました(アイズナー政権が倒れたのもこれが要因の1つ)。「プリンセスと魔法のキス」については2D回帰というエポックメイキングがありましたが、作品としてはストーリー的にとっちらかってた感があります(歴史的な意義はここ10年で一番だけど)。
野獣はなぜ王子に姿を変える必要があったのか
この3つ目のルネッサンスの手前(2000年〜2008年ごろ)、大変大きな事件がありました。それは「ディズニー(&ピクサー)以外のスタジオの台頭」です。より具体的には、ライオン・キングを境に袂を分かつことになる、元ディズニーのプロデューサー、ジェフリー・カッツェンバーグが作った「ドリームワークス」です。
ドリームワークスの作品は当初、ディズニーやピクサーのストーリーラインににた作品を多くリリースしていました。ところが2001年、とんでもない作品を作ります。それが「シュレック」です。
表向き、この作品はおとぎ話のパロディで作られているように見えます。実際その通りなのですが、最後のオチがとてつもない皮肉になっていました。当時、ディズニーは第2の黄金期の代表的作品、「美女と野獣」を超えるインパクトを作り出せていませんでした。シュレックはその古典的なストーリーのラストを完全に否定していたのです。
美女と野獣をはじめとする、「フリークス」が主役となる話は、主題として「姿は醜いが心は清い」としながらも、最終的には姿を変えるという矛盾に満ちたエンディングが多く存在します(その点、ノートルダムの鐘やシザーハンズ、シラノ・ド・ベルジュラックはそうではないので評価している)。野獣についてもその主題ならば姿を変える必要はないはずです。
シュレックはその主題に真っ向からぶつかりました。シュレックネタバレですが、ヒロインであるフィオナ姫は、真の愛のキスを経て、モンスターの姿になりました。が、これこそがハッピーエンドであるというストーリーで、初見時に大拍手しながらものすごく深く刺さったことを覚えています(続編はしらん)。
おとぎ話のパロディは、ディズニー作品で言うと「魔法にかけられて」(2007年公開)で実現します。これはこれで面白い試みでしたが、シュレックのインパクトを超えることはありませんでした。
#あとで気付いたのですが、「ノートルダムの鐘も異形のまま受け入れられるエンドだよ」という指摘もできるんじゃないかと思いました。が、上記のベクトルで言うとアレはカジモドがエスメラルダに受け入れられるというストーリーを描がいてこそ上記の文脈に……見たくないわそんなの。
王子様を待たないヒロイン像の系譜
ちょっと視点を変えて。上記の谷間ごとに、ヒロイン像が大きく変わっていることが分かります。
特に第2のルネッサンスが顕著ですが、王子様の世界に行くために声を犠牲にするアリエルや、家族のために女であることを捨てるムーラン(この決断のシーンの力強さと言ったら!)など、プリンセス像が変化した、と言われたのはこのころからでしょう。
ディズニー映画のどれがおすすめ?と聞かれたとき、個人的には白雪姫やシンデレラなどの昔の作品を出すのは誠実ではないなあ、と思います。今の女の子に対して、「待ち続ける姿」は合わないですよね。結果的に「行動をするプリンセス」が望まれており、それがストーリーとしても受け入れられている、というのが第2のルネッサンスの姿でした。
そしてディズニーは、さらに新たなヒロイン像を造り出します。それが、「アナと雪の女王」です。
恋愛よりも「姉妹愛」を前面に出すストーリー
ここから完全ネタバレ。この作品のプロモーション時にキャラクターの紹介がほとんどなかったのでおかしいと思ったのですが、この作品はプリンセスを登場させていながら、恋愛ストーリーがほとんど関係しないという構成になっていました。最終的に主題となるのは「姉妹愛」。これはなかなかしびれる展開でした。姉のために奔走する妹、妹のために身を引く姉。最後、身を挺して姉を守った「愛」こそが鍵となりました。プリンセスにはもうプリンスは不要だ、と言わんばかりの展開。ここまで来たか……。
ここでディズニー作品が1つステージを上がったと思ったのは、この「愛」という鍵が開けたものが、あくまで姉の心であり「氷の能力の否定」ではないことです。クライマックス以後、エルサの能力はそのまま残りつつ、受け入れられていくというのはとても救われた話だと思いました。普通のシナリオだったら、妹が守りました、姉が理解しました、能力がなくなって幸せに暮らしましたとさ、とするところ。これでは何も解決になってませんからね。美女と野獣みたいに。
その意味で、ディズニー長編作品としてはとても偉大なところにこの作品が位置付けられたと考えます。この道はドリームワークスが2001年にすでに通り過ぎた場所とはいえ、このような作品の王道を作り続けたディズニーがやっと通過したことは特筆に値します。
ヴィランズ不在
そしてもう1つ。キャラクターの紹介が少ないことからもしかして王子様がヴィランズじゃね?と指摘したら当たってました。やっちゃった…。
ですが、このハンスというキャラクター。ヴィランズというにはあまりにも小物です。個人的にはハンスは脅威ではあるにせよ、本当のヴィランズは「エルサの中にある考え方」だと思っています。特にLet It Goでのエルサの変ぼうでは顕著にそれが出てきているんじゃないかと。この能力は人のために使うことで解放され、隠すことで邪悪さが出てくる(結果、アレンデールは吹雪になる)のではないかと思います。
いままでのディズニーミュージカルとはちょっと違う音楽
今回、ロペス夫妻による音楽が付けられていますが、この音楽と展開がとても今風。サントラもかなり売れているようです。エルサとアナの「For the first time forever」に少しLet It Goの旋律を入れていたり(Let It Goにつながる、キーとなるメッセージはDo you want to build a snowman?にも入ってる)、ストーリーの冒頭からフルスピードでこれでもかと言わんばかりに詰め込むスタイルは新鮮でした。試写会時に解説の方が「まるでハイスクール・ミュージカルのように」と言ってましたがこれが一番ぴったりくる表現。
しかしロペス夫妻、ディズニー以外では「誰もがみんなレイシスト」「インターネットはポルノのためにある」「あー学生時代に戻って責任取らずに遊びてえ」「大学卒業しても何も仕事ねえよ」「有名子役だったのに場末のアパートの大家やってるアイツよりはマシか」「どうせ今だけなんだから何も考えずに生きようぜ」とか歌うミュージカルと同じ作者とは思えません。すごいね(←「Avenue Q」ね)。
残念なところが2つだけ
この作品については合格点をはるかに超えたものであることは確実です。その上で2点だけ、いただけない部分を指摘しておきます。
1つ目はやっぱり「両親を安易にストーリーから退場させること」。これはディズニーに限らずとはいえ、両親がいないことをフックにするのはよくないと思うんですよね。この点に限っては、すごく子供向けじゃない(参考:Why Does Disney Always Kill The Parents » Is Disney Evil?/ディズニー映画は親を殺す | dpost.jp
)。ただ、ストーリー上必然があって行われる親殺しは問題ないとはおもいます(個人的にはバンビ、あと親じゃないけど衝撃的だったカールじいさん)。
2つ目はイディナ・メンゼルのイディナ・メンゼル感。何を言ってるのかさっぱりかもしれませんが、この作品の最も重要なシーンである、エルサが自分の城を作る「Let It Go」において、映像がイディナ・メンゼルに追いつけなかったというのが一番の失敗点。いや、映像自体も近年ディズニー史に残る、圧倒的なものです。これ以上は無理だと言ってもいいでしょう。しかし、イディナ・メンゼルの圧倒的な存在感に勝つのは無理でした。楽曲も映像も素晴らしい。でもその歌声はもはやエルサではなく、イディナ・メンゼルそのものでした。
まあでもぶっちゃけて言うと、ストーリー的にはけっこう一本道だったし、予想外な驚きがいっぱいあるような話ではありませんでした。それはつまり安心してみられる、ということで初期ディズニー作品っぽい部分ともいえるかな。
ーー
映像美についてはもう語る必要がないと思うので触れませんでしたが、シーン作りも過去のディズニー作品を思い出させてくれるようなものも多く、これまでのまとめ的な作品に思いました。いまのところおとぎ話原作の作品は予定されていないのですが、次のハードルはとても高くなったなあ、と思います。
追記:2014年3月14日
公開直前に吹き替え版を見ることもできました。総じてアナ、エルサ、そしてオラフの吹き替えは完ぺき。特にオラフ。むしろ瀧。パンフに書かれたコメントで電気グルーヴファンは爆笑していることでしょう。
1点、これはもう仕方がないことなのですが、原詞にあったつながりが消えちゃったのがもったいないです。具体的には下記「For the First Time Forever」のエルサパートと、「Let it Go」。
「ひとりでいたいのに 誰にも会いたくない」
「とまどい傷つき 誰にも打ち明けずに」
これ、原詞ではともに「Don’t let them in, Don’t let them see. Be a good girl…」なのですね。実はその次の歌詞「Conceal, don’t feel, don’t let them know」も、オープニング直後の「Do you want to build a snowman」の中で、王(父)とエルサの会話からの引用になっています。過去の呪縛としてエルサが強いられてきた言葉を繰り返すことで、その後の力の解放を強く印象づける構成になっています。この構成を初見で見抜くのは難しいと思うので、個人的には(結果として)「Let It Go」の事前予習はアリだと思っていました。(映像を見る必要はないけれど)
残念ながら訳詞ではそこを入れ込んだ形にはなっていませんが、これはさすがに翻訳の限界だと思います。吹き替えを先に見た方は、原語版でもぜひどうぞ。