Gertie : 『ジャングルブック』の発明〜手書きとCG

Gertieコラム★『生命を吹き込む魔法』(4)-『ジャングルブック』の発明〜手書きとCG-
難しいテーマに挑戦した局長の<気分はブルー・スカイ 第20回 「アニメーションはCGに置き換えられるか」>に触発されて、今日は記念日だし、すこしだけアニメーションの表現形式について書いてみようと思う。今回の局長によるコラムの論点は3DCGへの移行を批判的にとらえるだけでなく、そうした表現手段の変遷が、新しいキャラクター、新しい創造者を育てていくというメッセージ性があり奥行きのあるものだった。詩と俳句のわかりにくい比喩をのぞけば(笑)、手書きアニメーションと3DCGの比較検討は簡潔で的確にとらえられているように思う。それにしてもこれだけのコラムを定期的に連載できるのはかなりな力量だとは思う。過去の記事も立体的なテーマの構成なのでぜひ未読の方はお読みになられたい。

さて3DCGという表現は、出来るだけ多くの情報量によってリアルさを表現する。だから基本原理は<過剰>だ。饒舌な信号によって色と形と運動を溢れんばかりに与える。この<過剰>さがリアルな感覚を与えるのである。我々もふだん感覚器にあびせられる感覚情報の<過剰>さの中にある。

一方、手書きのアニメーション(ちゃんとこう書いているところが局長の誠実さだ)は、すべてを描かない引き算の原理といえる。自然界の複雑な運動や造形から、もっとも抽象的だが正確な線や動きを抽出して、あとはできるかぎり省略する。いかに省略が説得力をもつかがアニメーターの大切な仕事だ。あとはその象徴性から見るものが引き出すイマジネーションにゆだねられる。手書きアニメーションは情報を凝縮した象徴性で構成されているから、これは<縮減>が基本原理といえるだろう。

二つの表現方法の基本原理は<過剰>と<縮減>という相対する性質に基づいているのだ。それぞれに利点と問題点があるが、短くまとめるため手書きアニメーションの問題点のみをここでは指摘しながら、ディズニーがその問題点を乗り越える方法さえも実践していたことを明らかにして、二つの表現形式が共に必要であることを強調しておきたい。

手書きのアニメーションは、たしかに象徴性に頼るぶんだけ、いかんせんステレオタイプになるきらいがある。人々が常識的と信じているものを信じすぎてしまう形式であるともいえる。ヴィランズにはどれも「いかにも」という共通の目つきがあるし、まがまがしいものを表現するときには典型的な色彩の使用法がある。だからマンネリに陥る要素を、すでにこの表現形式自身が内包しているのは否めない。しかしウォルトディズニーの功績は、半分典型的な象徴性を使いながら、半分ではこの固定観念としての象徴性を破壊し同時に創造したということにあるだろう。一例をあげよう。西洋における蛇の象徴性は悪そのものだった。しかし『ジャングルブック』という偉大な作品では、蛇のステレオタイプを破壊し、まったく新しい蛇のイメージをつくりだした。カーのアイデアがうまれるまで、どれほど難しいシークエンスだったかが、様々な伝記などにも記載されている。ウォルトディズニーは、本能的にカーの存在なしには『ジャングルブック』という作品が成立しないことを知っていた。無数の蛇のスケッチが残されている。彼の指示をうけてアニメーター達が最初に描く蛇は、どれも典型的な悪のイメージだった。しかしウォルトディズニーが手振り身振りで、アニメーター達の蛇のステレオタイプを壊していくにしたがって、蛇のデッサンはかつてなかった造形をうみだしていった。このイメージの変化にともなって、まるで2001年宇宙への旅の無重力を先取りするようなモーグリの催眠状態へのシークエンスを導きだすことへとつながっていく。

たとえばフルカラーの写真が席巻したとして、モノクロの写真がなくならないように、本来は多様な表現手法の一つ一つとして選択肢の中に3DCGと手書きのアニメーションが等価に存在すべきであると考える。どちらかを主従とするのでなく、アニメーターの道具箱を豊富にさせることが肝要だ。イメージがよりよく具体的になるのは、道具箱の豊かさそのものに関わっている。